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Classic Music Salonへようこそ#22 ≪ロマン主義シリーズ①≫~ドイツロマン主義の礎を築いた作曲家、ロベルト・シューマン<交響曲第4番>

みなさんこんにちは。三毛猫タマです
高らかに今年のテーマは『古典派~ロマン派』なんて宣言してしまったので・・・。
その宣言通り、行きたいと思います。
この時代は、各国各国で様々な素晴らしい音楽が誕生しました。
フランスはベルリオーズを生み、ドイツからは数えきれない作曲家が誕生し、その後を追うようにスラヴやイタリアから名作曲家が誕生し・・・。
今回はそんな中から、ドイツのロマン派に焦点を当てたいと思います。
そして、第22回の配信ではそのドイツロマン派の基礎を築いた作曲家ロベルト・シューマンを、彼が1841年に作曲し、1851年に改訂した《交響曲第4番ニ短調作品120》に焦点を当てつつ取り上げたいと思います。

<ロマン派作曲家は『職人』ではない>
シューマンについて語る前に、まずロマン派の作曲家とは何なのか。
ロマン派が主流となる前の17世紀、作曲家とは『職人』であった。
作曲家があこがれた職業、それは宮廷作曲家であった。王家につかえ、いわば「公務員」として、彼らが気に入るような音楽を書き、それを演奏する。彼らはいわば曲を作る『職人』であったのだ。私的感情を前面に押し出すよりは、宗教的な作品や、古典的な型に当てはまった曲を生み出すことを求められた(前者の代表がバロック音楽であり、後者の代表が初期~中期にかけてのモーツァルトである)。
この古典的な形式を変えていったのが、ドイツの楽聖ベートーヴェンである(彼の業績については後々述べる)。彼は古典派の型を壊し、ロマン派への門をたたいた。ロマン派の作曲家で彼の影響を受けていないものはいないといっても過言ではないだろう。
彼以降、標題音楽に代表されるような、作曲家自身の感情を、彼らが最も得意とする分野で表現し、作曲をする時代へと移って行った(これには歴史的にも宮廷の支配力の低下や、宗教改革を発端とした教会の影響力の低下といった背景も影響している)。作曲家が『職人』から『芸術家』へと変わっていったのはまさにこの時代なのである。それがロマン派なのである。

<シューマンの幼少期>
シューマンというと、どちらかといえばピアノ曲や歌曲のイメージが強いと思いという人が多いだろうか。
確かに彼は多くのピアノ曲や歌曲を残している。本人もピアニストとして活躍をした人物である。しかしながら、彼が残した管弦楽曲は後世に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。

シューマンは1810年6月8日、神聖ローマ帝国支配下のザクセン王国ツヴィッカウで5人兄弟の末っ子として生まれた。父アウグストは書店・出版業を営む人物で、シューマンは多くの文学作品に触れながら幼少期を過ごした。学生時代には音楽・文学両面で才能を発揮、雑誌に評論文を投稿するほどの才能を持っていた。アウグストもそんな息子の才能を認め、支援していた。彼は自身が通っていたギムナジウム(大学進学を志すものが通う学校で、9年制もしくは8年制の学校。日本の中高一貫校の位置づけに値する学校)の校長が企画していたコンサート「夕べの楽しみ」に参加。ソロピアニストとして多くの作品を弾いた。ここで、シューマンはハイドンやベートーヴェンといった、後々彼に大きな影響を与えた作曲家たちの作品に触れる。しかしながら、そんな父親が1826年に亡くなってしまう。生活の安定を重視した母親は、シューマンに法学の道へ進むことを強く求めた。

<法科生、そして作曲家へ>
彼はギムナジウムの卒業試験を優秀な成績で終了し、母親とその代理人が強く希望した法科への道を進む。これは彼にとっては当然不本意なものであった。そして、彼は法科生と大学に在籍はしたものの音楽への道も捨てきれなかった。そして1830年、彼は手紙を通じて母親に音楽の道へ専念することを告げ、渋々母親はこれを承諾し、シューマンはヴィークのもとでピアノを習うことになる。しかし、シューマンはここで一人の少女と運命の出会いをしてしまう。その少女こそのちのシューマンの妻となる人、クララ・ヴィークである。ヴィークは娘クララの教育に夢中でシューマンのレッスンはあまり真面目に見ることをせず、シューマンはヴィークに習うことを途中でやめている。
1834年には音楽雑誌『ライプツィヒ音楽新報』を自ら創刊した。父親が出版業界の人間だったこともあり、シューマンはそれらに関するノウハウをみにつけていたことを利用した。ここでシューマンは音楽の評論家としても活躍する。
彼と同時代に活躍した作曲は多数いるが、その中でもメンデルスゾーンは特別だ。彼とは深い交流を持っており、シューマンはわずか15歳で序曲『夏の夜の夢』を書いた彼の能力は高く評価していた。また、ショパンの才能を早くから見抜き、評価していたのもシューマンである。このようにシューマンはこれら多くの作曲家に影響を与えていた。

<交響曲の年に書かれた第4番>
ここからは交響曲第4番の成立背景を中心に述べるとする。
この曲は1841年に、妻クララへの誕生日プレゼントとして作曲された。というのも、彼はこの前年1840年に、法廷闘争を経てクララと結婚した。念願の結婚であった。そんな幸せ(というと多少語弊があるかもしれないが)の中で作られたのがこの交響曲第4番である。
クララは結婚の1年前の日記において次のように述べている。
「彼は管弦楽曲を作曲すれば、最良ではないだろうか。彼の想像力はピアノでは十分な領域を見出すことはできない・・・・・・彼の作品は感性の点で全く管弦楽的だ・・・・・・私の一番の望みは、彼が管弦楽のために作曲すること――それこそ彼の本領なのだ!彼をそう仕向けることができますように。」
1841年にシューマンはアドルフ・ベットガーの詩に啓示を受けて交響曲を作曲する。これがのちの交響曲第1番『春』へとなる。この曲の初演は1840年の3月31日に、メンデルスゾーンの指揮によって行われ、成功を収める(シューマンは熱狂的な成功を期待したが、そこまでの成功ではなかったようだ)。この成功で自信を得たシューマンはこの後数曲の管弦楽曲を作曲する。その「管弦楽曲作曲の波」の最後の方に作曲されたのがこの第4番である。
ちなみに、作曲されたのが1841年なのに対して作品番号が120番とかなり後の方の番号が付けられているが、これは出版順に基づくからである。シューマンは1841年に作曲した初稿版を作曲していないため、改訂版の方の出版年に基づき分類されているため、このようになっている。
この曲のテーマを、改訂した際シューマンは「交響的幻想曲」と呼ぶ考えであったことがわかっている。シューマンはベルリオーズとも深い交流を持っており、彼の幻想交響曲の影響を受けていることがわかる。さらに、シューマンはこの曲を1851年に改訂するが、この10年の間に彼はオペラ音楽に挑戦している。現在、初稿版を演奏した録音が何個か存在するが、初稿版と改訂版ではやはりオーケストレーションの厚みがまったく違う。オペラ音楽に挑戦したことにより、彼が管弦楽の新しい捉え方を見出し、それに基づいて曲を改訂したことがうかがえる。
彼の管弦楽曲の特徴として指摘できるのが、各楽器やセクションによるトゥッティが多用されている部分である。この各楽器のトゥッティによって一つのメロディーが、様々な形へと変化していきながら奏でられていく。そのような楽曲全体の統一感が大きな特徴として指摘できよう。その反面、この曲の改訂時もピアノスコアからオーケストレーションを組み立てたこともあり、ベルリオーズやメンデルスゾーンといった作曲家と比べると、ややオーケストレーションの薄い部分があることも指摘できよう。初稿版と比べると改訂版は重厚なオーケストレーションが表現されているものの、前述した作曲家の作品と比べるとやや劣ると感じられるところがある。
初稿版と改訂版のもう一つの大きな違いは初稿版の指示がイタリア語で書かれているのに対し、改訂版はドイツ語で記されている。これは大事な点である。また、第1楽章の序奏は、改訂版と異なり主調の属和音(イ長調)・強拍から始まる(改訂版では主調・弱拍(3拍目))。
このように改訂版では全体の統一感を出すため、初稿版から様々な部分が変更されている。

―第1部―
初稿版(以下41年版とする)における第1楽章にあたる部分。
41年版では、最初の和声が前述したとおり改訂版(以下51年版)とは異なる。また序奏の部分も、41年版は信号的な合図とともに第一主題が提示されるのに対して、51年版ではあおるようなメロディーの流れの中で第一主題が示される。また、41年版はリピートも少ないため、あっさりとした仕上がりになっているが、51年版では第一主題の提示部が繰り返されるつくりとなっている。これ以外にも多くの違いがあり、シューマンが改訂時に大幅にオーケストレーションを変更したことがわかる。
妻クララの誕生日プレゼントとして作曲された曲なのにもかかわらず、短調で始まるこの曲は、シューマン夫妻のこれまでの苦悩を思わせるようなものになっている。

―第2部―
vcとobのソロから始まることで有名な箇所。41年版の第2楽章にあたる部分。後半部ではオケの和声進行にソロヴァイオリンがアルペジオで花を添える、美しい作りとなっている。
両方の版とも、5分前後と短い楽章である。

―第3部―
スケルツォ。41年版の第3楽章にあたる部分。
弦楽器の激しい刻みから始まる。攻撃的にも聞こえるメロディーと、田園風景が広がる田舎の牧歌的なメロディーとが交互に表れる作りは非常に印象的だ。
41年版と51年版の間で大きな相違点は見つからないが、木管の使い方に少し違いがみられる。

―第4部―
41年版の第4楽章にあたる部分。
重苦しい序奏が終わると、歓喜にあふれたようなメロディーが奏でられる。最終部のプレストは非常に印象的だ。
この楽章は41年版と51年版とで全く違う曲といっても過言ではないほど多くの違いがみられる。
まず、第1主題への導入部分、そして第1主題のメロディーが異なる。さらに、51年版では弦楽器によって奏でられる4楽章の第2主題が、41年版では木管楽器から弦楽器への移り変わりによって奏でられている。そして、中間部の決め打ちのように聞こえる和声進行が異なる、繰り返しがないなど、多くの違いがみられる。総じて、41年版では弦楽器と木管楽器のアンサンブルが多いのに対して、51年版ではこれらが弦楽器のトゥッティによって奏でられている。
筆者個人としては41年版の方が、木管と弦楽器のアンサンブルが多く、とても美しく聞こえ、音楽的にも面白みがあるため、41年版の4楽章の方がよいと思う。

<参考音源>
1841年版
Orchestra of the Age of Enlightenment
Simon Rattle, conductor
URL:https://www.youtube.com/watch?v=E57iGj5_UGM

1851年版
Royal Concertgebouw Orchestra,
Bernard Haitink, conductor
URL:https://www.youtube.com/watch?v=w4svfz8WFjo
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