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Classic Music Salonへようこそ#20 ~第一次世界大戦開戦から100年・・・2つの戦争を経験したソ連の作曲家ショスタコーヴィチ②

ショスタコーヴィチ特集第2回目。
今回は交響曲第7番について書きたいと思います。

交響曲第7番が書かれた当時、ソ連は勝敗の分岐点に立たされていた。
レニングラード包囲。期間は1941年9月8日~1944年1月18日。実に900日以上である。
ソ連政府による発表では、餓死・爆撃死などで67万人、一説には100万人以上が死亡したといわれている。これは太平洋戦争における、日本人の民間人の戦災死者数の合計(原爆や東京大空襲なども含める)を上回る数である。この曲はそうした想像を絶する状況下にあったレニングラードにおいて1941年8月頃から作曲が開始され、12月17日に完成した。
ショスタコーヴィチの出身地はレニングラードである。彼はその後もレニングラードを中心に活動しており、生まれ故郷に対する気持ちは強かった。
独ソ戦勃発を彼は、レニングラード音楽院の小ホールにて行われていたピアノ科の試験に委員長として立ち会っている時に聞いた。1941年6月22日のことである。それから3か月もたたないうちにレニングラードはドイツ軍に包囲される。彼はシェバリーンにあてた手紙の中で次のように述べている。
「作曲家たちは私の作品(筆者注:前作の交響曲第6番のこと。交響曲第5番とは対照的に思ったような評価を受けることができなかった。)に憤慨している。どうすべきか。どうやら、私は役立たずのようです。こうした状況にいちいち落胆すまいと努めてはいるのですが、なんとしても塞ぎの虫がおさまりません。」(ヘーントワ、S(亀山郁夫訳)『驚くべきショスタコーヴィチ』P.15、筑摩書房、1997刊)
彼は戦争勃発を受け、人民義勇軍への編入を強く望んだが、映画監督L・トラウベルグが義勇軍本部に直接赴き、天才の生命を守らねばならないと説得、その結果彼は音楽院の屋上で寝ずの番を務める民間消防団員に加えられる。同時に義勇軍劇場の指揮者も任された。
この曲は彼の愛国心から生まれた曲である。作曲はハイペースで進められ、4ヶ月弱で完成した。
実は、1~3楽章はおよそ2ヶ月で完成している。4か月かかったのは、途中でレニングラードからの疎開を命じられたために制作活動を中断していたためである。
『わが父ショスタコーヴィチ』には、その疎開の様子が詳細に語られていた。以下は、同書からの引用である。
「ガリーナ 
 ―省略―
 その次に思い出すのは、やはり同じ年の秋のこと。今度はドイツ軍に包囲されたレニングラードの飛行場で、車ではなく飛行機に荷物を積み込んでいるのです。その飛行機はとても小さくて、乗り込んだのは私たち4人のほかに3,4人のパイロットだけ。飛行機の中には、椅子もなくて、板張りの床に木箱があるだけでした。その上に座ってはいけないといわれていたので、持ち込んだスーツケースに腰を下ろしました。機内の上部には、透き通った円天井のような場所があって、1人パイロットが立ち、司法を見回していました。その人が合図をしたら、すぐ床に伏せるように言われていました。
 マクシム
 ―省略―
 飛行中ずっと、僕は眼下の街の灯を見ていました。すると下の方でぱあーっと炎が広がったので、『あれ、どうしたの?』と尋ねると、ドイツ軍が僕たちの飛行機めがけて発砲したのだといわれました。」
(ミハイル・アールドフ編、田中泰子監修、「カスチョールの会」訳『わが父ショスタコーヴィチ―初めて語られる大作曲家の素顔』P.15~16、音楽之友社・2003年刊)
まさに命がけの疎開。当時まだ二人は幼かったようだが、この出来事は鮮明に覚えているそうだ。これが、1941年10月15日のことであった。
初演は1942年3月5日、S.サモスード、ボリショイ劇場管弦楽団によっておこなわれた。その初演の模様はソヴィエトの全ラジオ放送局によって最も重要な政府報道と同じように中継され、大成功を収めたといわれる。
この初演には彼の子供たちも来ていた。その時のことをマクシムはこう語っている。
「でも初演の日のことは胸に焼き付いています。《交響曲第7番》に完全に魅了され、心を揺さぶられてしまって。―中略―それから、その初演の日にもらったチョコ菓子のおいしかったことも忘れられません。チョコレートにくるまれた柔らかいキャンディーで、あんなおいしいチョコ菓子は初めてでした。」
このマクシムの話に、ガリーナが次のように付け加えている。
「あのころはたいへんな食糧不足でしたものね。そのチョコ菓子の味をマクシムが忘れられないのはそのせいもあるのでしょう。普通の人はきっと、ショスタコーヴィチの子供がひもじい思いをしてるなんて、とても信じないでしょうけれど、クイブイシェフの疎開先には、父を頼って親戚一同がやってきていたので、父ひとりで皆を養うのは並大抵ではなかったのです。」(ミハイル・アールドフ編、田中泰子監修、「カスチョールの会」訳『わが父ショスタコーヴィチ―初めて語られる大作曲家の素顔』P.20~21、音楽之友社・2003年刊)
同じ年の8月9日にはレニングラード初演が行われた。ドイツ軍に包囲されたこの街で唯一踏みとどまっていたレニングラード放送管弦楽団に、欠員補充のために専門音楽家を前線から呼び戻して行われた。この初演に関して、ある劇的なエピソードが残っている。
「演奏会は8月9日に行われたが、その日はヒトラー軍が市に侵入しようとした当日であった。苦しさと飢えにもかかわらず、フィルハーモニーのホールは聴衆でうずまった。もはや慣れっこになっていた砲撃が鳴りを静めたのには、だれもがいぶかしがった。のちになって、レニングラード戦線のゴーヴォロフ司令官の命令によって、敵のトーチカが沈黙させられたことが分かった。」(グリゴーリエフ、L.プラテーク、Ja(編)(ラドガ出版所訳)『ショスタコーヴィチ自伝 時代と自信を語る』P.131、ナウカ、1980年刊)
極限状態に置かれたレニングラード市民に、この曲はどう聞こえたのであろうか。
【各楽章について】
・第1楽章―Allegreto―
第1主題である「人間の主題」が力強く演奏された後、第2主題「平和な生活の主題」が美しく奏でられる。その静けさを小太鼓によって破られ、「戦争の主題」がとどろく。
この第1楽章について、マクシムが次のように語っている。
「第1楽章の襲来のテーマ。避けることができない何か忌まわしいものの接近。その頃僕とガーリャには信心深いパーシャという子守がいました。その晩この曲は僕の夢の中にも出てきて・・・・・・遠くの方で聞こえていた太鼓が、だんだん近づいてくる・・・・・・どんどん大きく、大きく、大きく。僕は悪夢の恐ろしさに目を覚まして、パーシャのところへすっとんでいきました。するとパーシャは十字を切って、僕のために静かに祈ってくれたんです。」(ミハイル・アールドフ編、田中泰子監修、「カスチョールの会」訳『わが父ショスタコーヴィチ―初めて語られる大作曲家の素顔』P.20~21、音楽之友社・2003年刊)
迫りくるドイツ軍。包囲戦は時間との戦いでもある。じわじわと迫ってくる死と静かに戦う市民の姿を描いたものであろう。その描写は、幼い子供にはインパクトが強すぎたのかもしれない。
当然のことだが、ショスタコーヴィチはこの楽章に与えるべきである副題を「戦争」であると語っている。
・第2楽章―Moderato. Poco allegretto―
ショスタコーヴィチは、この楽章には「回想」という副題を与えようと考えていた。
その副題を思わせるような、行き場のない宙をくるくると回るような弦楽器によるメロディーで始まる。オーボエの哀愁に満ちたメロディーも印象的である。何か落ち着かない和音が、市民の落ち着きたいのに落ち着かない気持ちを表わしているように思える。
平和だったあの頃に戻りたい・・・。包囲戦のさなか、レニングラード市民全員が思ったことに違いない。こんなつらい、なんのためにもならない戦争は早く終わらせたい。爆撃音が日常茶飯事と思ってしまうような生活から解放されたいと切に願ったであろう。
・第3楽章―Adagio―
彼は、この楽章には「祖国の大地」という副題を与えようとしていた。「祖国の大地」とは、いったい何なのか。
広大なロシアの大地。この大地は、たくさんのロシア人の血を吸ってきた。タタールのくびき、ナポレオンに勝利したモスクワの戦い、ソ連成立の際にも革命で多くのロシア人が犠牲となった。そして、レニングラード包囲。ロシア人はたくさんの困難を、町全体が一丸となって乗り越えてきた。「大祖国戦争」とも呼ばれたこの独ソ戦に、ナポレオン戦争でモスクワの街が持ちこたえた史実を重ねた市民も少なくないと思う。その戦いはロシアが西欧に勝った誇るべき勝利だったからだ。今回もナチスドイツに包囲され、食料の供給が途絶え、孤立。過酷な状況をいかに耐えるのかが、勝利への道だと思っていた市民も多くいたと思う。そういった市民の気持ちを鼓舞するような力強いメロディーが随所に表れている。
そして、その音楽は終楽章に待っている「勝利」へと切れ間なく続く。
・第4楽章―Allegro non troppo―
この楽章を彼は「勝利」の楽章と呼んだ。この楽章で繰り返し表現される「タタタター」という同音連打はモールス信号の「V」(・・・-)すなわち「Victory」を表すとされている。
相手の攻撃に耐え抜き続け、極限状態を脱しての勝利。第2部の冒頭に演奏される哀悼のメロディーは戦争での犠牲者を悼むメロディーといわれる。第3部においてはその速度を維持したまま基本モチーフが重厚に展開され、結末へのただ1本のクレッシェンドを形成、その頂点で第1楽章の第1主題(「人間の主題」)が全楽器の絶叫によって打ち立てられ、序奏の同音連打が勝利の宣言となる。

ショスタコーヴィチはレニングラードの勝利を確信していたのだろうか。この曲が作曲されたのは1941年だが、その時には900日間を超える超長期戦になるとは思ってもいなかっただろう。私は、この曲を書いた当初、現実とは違う展開を考えていたのではないかと思う。
もし、このような超長期戦になることがわかっていたら、こんな曲はかけなかったのではないだろうか、と私は思う。
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