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Classic Music Salonへようこそ#22 ≪ロマン主義シリーズ①≫~ドイツロマン主義の礎を築いた作曲家、ロベルト・シューマン<交響曲第4番>

みなさんこんにちは。三毛猫タマです
高らかに今年のテーマは『古典派~ロマン派』なんて宣言してしまったので・・・。
その宣言通り、行きたいと思います。
この時代は、各国各国で様々な素晴らしい音楽が誕生しました。
フランスはベルリオーズを生み、ドイツからは数えきれない作曲家が誕生し、その後を追うようにスラヴやイタリアから名作曲家が誕生し・・・。
今回はそんな中から、ドイツのロマン派に焦点を当てたいと思います。
そして、第22回の配信ではそのドイツロマン派の基礎を築いた作曲家ロベルト・シューマンを、彼が1841年に作曲し、1851年に改訂した《交響曲第4番ニ短調作品120》に焦点を当てつつ取り上げたいと思います。

<ロマン派作曲家は『職人』ではない>
シューマンについて語る前に、まずロマン派の作曲家とは何なのか。
ロマン派が主流となる前の17世紀、作曲家とは『職人』であった。
作曲家があこがれた職業、それは宮廷作曲家であった。王家につかえ、いわば「公務員」として、彼らが気に入るような音楽を書き、それを演奏する。彼らはいわば曲を作る『職人』であったのだ。私的感情を前面に押し出すよりは、宗教的な作品や、古典的な型に当てはまった曲を生み出すことを求められた(前者の代表がバロック音楽であり、後者の代表が初期~中期にかけてのモーツァルトである)。
この古典的な形式を変えていったのが、ドイツの楽聖ベートーヴェンである(彼の業績については後々述べる)。彼は古典派の型を壊し、ロマン派への門をたたいた。ロマン派の作曲家で彼の影響を受けていないものはいないといっても過言ではないだろう。
彼以降、標題音楽に代表されるような、作曲家自身の感情を、彼らが最も得意とする分野で表現し、作曲をする時代へと移って行った(これには歴史的にも宮廷の支配力の低下や、宗教改革を発端とした教会の影響力の低下といった背景も影響している)。作曲家が『職人』から『芸術家』へと変わっていったのはまさにこの時代なのである。それがロマン派なのである。

<シューマンの幼少期>
シューマンというと、どちらかといえばピアノ曲や歌曲のイメージが強いと思いという人が多いだろうか。
確かに彼は多くのピアノ曲や歌曲を残している。本人もピアニストとして活躍をした人物である。しかしながら、彼が残した管弦楽曲は後世に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。

シューマンは1810年6月8日、神聖ローマ帝国支配下のザクセン王国ツヴィッカウで5人兄弟の末っ子として生まれた。父アウグストは書店・出版業を営む人物で、シューマンは多くの文学作品に触れながら幼少期を過ごした。学生時代には音楽・文学両面で才能を発揮、雑誌に評論文を投稿するほどの才能を持っていた。アウグストもそんな息子の才能を認め、支援していた。彼は自身が通っていたギムナジウム(大学進学を志すものが通う学校で、9年制もしくは8年制の学校。日本の中高一貫校の位置づけに値する学校)の校長が企画していたコンサート「夕べの楽しみ」に参加。ソロピアニストとして多くの作品を弾いた。ここで、シューマンはハイドンやベートーヴェンといった、後々彼に大きな影響を与えた作曲家たちの作品に触れる。しかしながら、そんな父親が1826年に亡くなってしまう。生活の安定を重視した母親は、シューマンに法学の道へ進むことを強く求めた。

<法科生、そして作曲家へ>
彼はギムナジウムの卒業試験を優秀な成績で終了し、母親とその代理人が強く希望した法科への道を進む。これは彼にとっては当然不本意なものであった。そして、彼は法科生と大学に在籍はしたものの音楽への道も捨てきれなかった。そして1830年、彼は手紙を通じて母親に音楽の道へ専念することを告げ、渋々母親はこれを承諾し、シューマンはヴィークのもとでピアノを習うことになる。しかし、シューマンはここで一人の少女と運命の出会いをしてしまう。その少女こそのちのシューマンの妻となる人、クララ・ヴィークである。ヴィークは娘クララの教育に夢中でシューマンのレッスンはあまり真面目に見ることをせず、シューマンはヴィークに習うことを途中でやめている。
1834年には音楽雑誌『ライプツィヒ音楽新報』を自ら創刊した。父親が出版業界の人間だったこともあり、シューマンはそれらに関するノウハウをみにつけていたことを利用した。ここでシューマンは音楽の評論家としても活躍する。
彼と同時代に活躍した作曲は多数いるが、その中でもメンデルスゾーンは特別だ。彼とは深い交流を持っており、シューマンはわずか15歳で序曲『夏の夜の夢』を書いた彼の能力は高く評価していた。また、ショパンの才能を早くから見抜き、評価していたのもシューマンである。このようにシューマンはこれら多くの作曲家に影響を与えていた。

<交響曲の年に書かれた第4番>
ここからは交響曲第4番の成立背景を中心に述べるとする。
この曲は1841年に、妻クララへの誕生日プレゼントとして作曲された。というのも、彼はこの前年1840年に、法廷闘争を経てクララと結婚した。念願の結婚であった。そんな幸せ(というと多少語弊があるかもしれないが)の中で作られたのがこの交響曲第4番である。
クララは結婚の1年前の日記において次のように述べている。
「彼は管弦楽曲を作曲すれば、最良ではないだろうか。彼の想像力はピアノでは十分な領域を見出すことはできない・・・・・・彼の作品は感性の点で全く管弦楽的だ・・・・・・私の一番の望みは、彼が管弦楽のために作曲すること――それこそ彼の本領なのだ!彼をそう仕向けることができますように。」
1841年にシューマンはアドルフ・ベットガーの詩に啓示を受けて交響曲を作曲する。これがのちの交響曲第1番『春』へとなる。この曲の初演は1840年の3月31日に、メンデルスゾーンの指揮によって行われ、成功を収める(シューマンは熱狂的な成功を期待したが、そこまでの成功ではなかったようだ)。この成功で自信を得たシューマンはこの後数曲の管弦楽曲を作曲する。その「管弦楽曲作曲の波」の最後の方に作曲されたのがこの第4番である。
ちなみに、作曲されたのが1841年なのに対して作品番号が120番とかなり後の方の番号が付けられているが、これは出版順に基づくからである。シューマンは1841年に作曲した初稿版を作曲していないため、改訂版の方の出版年に基づき分類されているため、このようになっている。
この曲のテーマを、改訂した際シューマンは「交響的幻想曲」と呼ぶ考えであったことがわかっている。シューマンはベルリオーズとも深い交流を持っており、彼の幻想交響曲の影響を受けていることがわかる。さらに、シューマンはこの曲を1851年に改訂するが、この10年の間に彼はオペラ音楽に挑戦している。現在、初稿版を演奏した録音が何個か存在するが、初稿版と改訂版ではやはりオーケストレーションの厚みがまったく違う。オペラ音楽に挑戦したことにより、彼が管弦楽の新しい捉え方を見出し、それに基づいて曲を改訂したことがうかがえる。
彼の管弦楽曲の特徴として指摘できるのが、各楽器やセクションによるトゥッティが多用されている部分である。この各楽器のトゥッティによって一つのメロディーが、様々な形へと変化していきながら奏でられていく。そのような楽曲全体の統一感が大きな特徴として指摘できよう。その反面、この曲の改訂時もピアノスコアからオーケストレーションを組み立てたこともあり、ベルリオーズやメンデルスゾーンといった作曲家と比べると、ややオーケストレーションの薄い部分があることも指摘できよう。初稿版と比べると改訂版は重厚なオーケストレーションが表現されているものの、前述した作曲家の作品と比べるとやや劣ると感じられるところがある。
初稿版と改訂版のもう一つの大きな違いは初稿版の指示がイタリア語で書かれているのに対し、改訂版はドイツ語で記されている。これは大事な点である。また、第1楽章の序奏は、改訂版と異なり主調の属和音(イ長調)・強拍から始まる(改訂版では主調・弱拍(3拍目))。
このように改訂版では全体の統一感を出すため、初稿版から様々な部分が変更されている。

―第1部―
初稿版(以下41年版とする)における第1楽章にあたる部分。
41年版では、最初の和声が前述したとおり改訂版(以下51年版)とは異なる。また序奏の部分も、41年版は信号的な合図とともに第一主題が提示されるのに対して、51年版ではあおるようなメロディーの流れの中で第一主題が示される。また、41年版はリピートも少ないため、あっさりとした仕上がりになっているが、51年版では第一主題の提示部が繰り返されるつくりとなっている。これ以外にも多くの違いがあり、シューマンが改訂時に大幅にオーケストレーションを変更したことがわかる。
妻クララの誕生日プレゼントとして作曲された曲なのにもかかわらず、短調で始まるこの曲は、シューマン夫妻のこれまでの苦悩を思わせるようなものになっている。

―第2部―
vcとobのソロから始まることで有名な箇所。41年版の第2楽章にあたる部分。後半部ではオケの和声進行にソロヴァイオリンがアルペジオで花を添える、美しい作りとなっている。
両方の版とも、5分前後と短い楽章である。

―第3部―
スケルツォ。41年版の第3楽章にあたる部分。
弦楽器の激しい刻みから始まる。攻撃的にも聞こえるメロディーと、田園風景が広がる田舎の牧歌的なメロディーとが交互に表れる作りは非常に印象的だ。
41年版と51年版の間で大きな相違点は見つからないが、木管の使い方に少し違いがみられる。

―第4部―
41年版の第4楽章にあたる部分。
重苦しい序奏が終わると、歓喜にあふれたようなメロディーが奏でられる。最終部のプレストは非常に印象的だ。
この楽章は41年版と51年版とで全く違う曲といっても過言ではないほど多くの違いがみられる。
まず、第1主題への導入部分、そして第1主題のメロディーが異なる。さらに、51年版では弦楽器によって奏でられる4楽章の第2主題が、41年版では木管楽器から弦楽器への移り変わりによって奏でられている。そして、中間部の決め打ちのように聞こえる和声進行が異なる、繰り返しがないなど、多くの違いがみられる。総じて、41年版では弦楽器と木管楽器のアンサンブルが多いのに対して、51年版ではこれらが弦楽器のトゥッティによって奏でられている。
筆者個人としては41年版の方が、木管と弦楽器のアンサンブルが多く、とても美しく聞こえ、音楽的にも面白みがあるため、41年版の4楽章の方がよいと思う。

<参考音源>
1841年版
Orchestra of the Age of Enlightenment
Simon Rattle, conductor
URL:https://www.youtube.com/watch?v=E57iGj5_UGM

1851年版
Royal Concertgebouw Orchestra,
Bernard Haitink, conductor
URL:https://www.youtube.com/watch?v=w4svfz8WFjo
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Classic Music Salonへようこそ#21 ~若き天才作曲家が残した交響曲―メンデルスゾーン 交響曲第4番『イタリア』

みなさんこんにちは。三毛猫タマです

今日はメンデルスゾーンが作曲した交響曲第4番について触れたいと思います。

メンデルスゾーンの交響曲の番号は出版順に付けられているため、作曲順ではありません。この曲は第1番、第5番「宗教改革」に次いで実質3番目に完成された交響曲です。
完成したのは1833年。メンデルスゾーンは1809年生まれですので、24歳にしてこの曲を書き上げたことになります。

彼は早熟の作曲家でした。かの有名な「『夏の夜の夢』序曲 ホ長調 作品21」(注:一般的にこの曲の題名は『真夏の夜の夢』とされるのが一般的でした。しかしながら、近年原題の「midsummer night」に対し、評論家の福田 恆存氏が「真夏の夜」という訳ではなく、「「Midsummer-day」は夏至で、クリスト教の聖ヨハネ祭日前後に当り、その前夜が「Midsummer-night」なのである」ので「直訳すれば、「夏至前夜の夢」となる」ため、「真夏の夜」という訳は不適切であると指摘したことを受け、「夏の夜」とするのが一般的になりつつあるので、筆者もこれに倣っています)は17歳にして書き上げた曲です。17歳にしてあれだけの曲が書けるところからして、彼の天才ぶりがうかがえます。そんな彼が、1829年にバッハが作曲した『マタイ受難曲』の復活公演を成功させた後に行った演奏旅行先であるイタリアで着想を得て作曲したのが、今回ご紹介する交響曲第4番です。

『イタリア』という副題がついていますが、ベルリオーズが確立した標題音楽的な要素はなく、最終楽章にイタリア舞曲のサルタレロが取り入れられている程度です。しかし、躍動感あふれる曲調、長と短が明瞭に表現されている部分は、イタリア演奏旅行で受けたものだと思います。

当時のイタリアは、芸術の世界では最先端を行く国でした。イタリアオペラ発祥の地であり、ルネッサンスが始まった地でもあり・・・モーツァルトもイタリアに行き、オペラに触れることでオペラの魅力を感じたといいます。
1815年ごろから、イタリアではナポレオンではなく、自分たちで国を統一しようという機運が高まっていました。そして、1830年に起きたフランス7月革命に触発されてイタリアでも革命が起きています。そんなイタリアの歴史の転換点にあたるときに、メンデルスゾーンはイタリア旅行に行っているのです。それゆえか、明と暗が交互に曲に現れます。標題音楽ではないとしても、彼がイタリアに行ったことで受けた影響が表れていないわけがなく、そんな動乱の時代へと向かおうとしているイタリアをこの曲で表現しようとしていることは間違いないと思います。

《楽章ごとの解説》
―1楽章―
何かを楽しみに待っている時の気持ちを音にしたかのような音楽が奏でられます。楽しみなことに心湧き立つさまを描いたような・・・。私も初めて欧州へ行った時の飛行機の中で聞いていたのがこのイタリア交響曲の第一楽章でした。憧れの地へ行ける楽しさを表現しているのはこの曲だ!と思って聞いていました。
低弦が細かいリズムを刻み、その上に高弦と木管のメロディーが乗っかる、というのが基本構造です。そして、繰り返し出てくる主題。これが次々と変奏されていくスタイルで楽章が進行していきます。時々マイナーな和声による進行が見られますが、基本としてメジャーの和声で進行していきます。6/8拍子という拍子も印象的です。2拍子であり3拍子であるこの拍子は、まるで舞曲を思わせる拍子です。
なお、譜面には反復せよという指示がありますが、演奏によっては反復せずに進行する演奏もあります。
メンデルスゾーンはイタリアへ演奏旅行へ行っている時に、ローマ教皇グレゴリウス16世の就任式や謝肉祭などの、華やかなイベントを目にしていたといわれています。そんなイタリアの華やかさが全面に出たのがこの第一楽章でしょう。

―2楽章―
メヌエット形式で奏でられるこの楽章は、一楽章とはちがい、華やかさが全面に出された楽章ではありません。哀愁漂う歌曲のようにも聞こえます。低弦が全体を通じて刻むリズムが非常に印象的です。

―3楽章―
田舎を描いたようなゆったりとした明るい曲調の楽章です。麦畑の麦が風に揺られてゆらゆらとしている中を、空を飛ぶ鳥の鳴き声を聞きながら歩いているような・・・そんな情景を思わせるメロディーが続きます。
中盤に出てくるHrのメロディー。このメロディーを合図に曲調が少し変化します。このHrのメロディー、個人的にはアルプスの草原で聞こえてきそうなメロディーにも聞こえなくないと思うのですが・・・。

―4楽章―
熱狂的な冒頭が印象的な4楽章。この楽章ではローマ付近の民衆に流行した舞曲「サルタレロ」をモチーフにしています。途中に現れるなめらかな音型がタランテラのリズムに乗って現れます。タランテラはナポリの舞曲のことで、早いテンポの曲です。多くの有名作曲家がこの舞曲のリズムを利用してイタリアに関する曲を残しています。(チャイコフスキーの『イタリア奇想曲』、『くるみ割り人形』のグラン・パ・ド・ドゥの第2曲、メンデルスゾーンの『無言歌集』第8巻の第3曲など)
曲は終始熱狂的に進んでいきます。が、ちらちらと暗い部分が見え隠れするように聞こえるのは私だけでしょうか。これからのイタリアの、統一までに待っている歴史を予感させるフレーズにも聞こえないでしょうか?

※今回の執筆に関して聞いたCD
 指揮:ヘルベルト・ヴォン・カラヤン
演奏:ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
発売:Panorama社(発売年:2000年8月15日)
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―記事は終わりです―

~最後に~
さて、このブログを始めたのは昨年の11月頃でした。今年で1年がたちました。書いた記事の本数はおよそ20本です。
後半戦は「更新停止」が続いてしまいました。所属しているオケで役職を持っている関係上、どうしても時間を割けないことが続いてしまいました。申し訳ありませんでした。
まさか今年最後の更新が大晦日になるとは思いませんでした・・・。
来年も、細々とサロンを運営していこうと思っております。
今年一年ありがとうございました。
また、来年、お会いしましょう。
みなさま、良い年を!

サロンオーナー 三毛猫タマ

Classic Music Salonへようこそ#20 ~第一次世界大戦開戦から100年・・・2つの戦争を経験したソ連の作曲家ショスタコーヴィチ②

ショスタコーヴィチ特集第2回目。
今回は交響曲第7番について書きたいと思います。

交響曲第7番が書かれた当時、ソ連は勝敗の分岐点に立たされていた。
レニングラード包囲。期間は1941年9月8日~1944年1月18日。実に900日以上である。
ソ連政府による発表では、餓死・爆撃死などで67万人、一説には100万人以上が死亡したといわれている。これは太平洋戦争における、日本人の民間人の戦災死者数の合計(原爆や東京大空襲なども含める)を上回る数である。この曲はそうした想像を絶する状況下にあったレニングラードにおいて1941年8月頃から作曲が開始され、12月17日に完成した。
ショスタコーヴィチの出身地はレニングラードである。彼はその後もレニングラードを中心に活動しており、生まれ故郷に対する気持ちは強かった。
独ソ戦勃発を彼は、レニングラード音楽院の小ホールにて行われていたピアノ科の試験に委員長として立ち会っている時に聞いた。1941年6月22日のことである。それから3か月もたたないうちにレニングラードはドイツ軍に包囲される。彼はシェバリーンにあてた手紙の中で次のように述べている。
「作曲家たちは私の作品(筆者注:前作の交響曲第6番のこと。交響曲第5番とは対照的に思ったような評価を受けることができなかった。)に憤慨している。どうすべきか。どうやら、私は役立たずのようです。こうした状況にいちいち落胆すまいと努めてはいるのですが、なんとしても塞ぎの虫がおさまりません。」(ヘーントワ、S(亀山郁夫訳)『驚くべきショスタコーヴィチ』P.15、筑摩書房、1997刊)
彼は戦争勃発を受け、人民義勇軍への編入を強く望んだが、映画監督L・トラウベルグが義勇軍本部に直接赴き、天才の生命を守らねばならないと説得、その結果彼は音楽院の屋上で寝ずの番を務める民間消防団員に加えられる。同時に義勇軍劇場の指揮者も任された。
この曲は彼の愛国心から生まれた曲である。作曲はハイペースで進められ、4ヶ月弱で完成した。
実は、1~3楽章はおよそ2ヶ月で完成している。4か月かかったのは、途中でレニングラードからの疎開を命じられたために制作活動を中断していたためである。
『わが父ショスタコーヴィチ』には、その疎開の様子が詳細に語られていた。以下は、同書からの引用である。
「ガリーナ 
 ―省略―
 その次に思い出すのは、やはり同じ年の秋のこと。今度はドイツ軍に包囲されたレニングラードの飛行場で、車ではなく飛行機に荷物を積み込んでいるのです。その飛行機はとても小さくて、乗り込んだのは私たち4人のほかに3,4人のパイロットだけ。飛行機の中には、椅子もなくて、板張りの床に木箱があるだけでした。その上に座ってはいけないといわれていたので、持ち込んだスーツケースに腰を下ろしました。機内の上部には、透き通った円天井のような場所があって、1人パイロットが立ち、司法を見回していました。その人が合図をしたら、すぐ床に伏せるように言われていました。
 マクシム
 ―省略―
 飛行中ずっと、僕は眼下の街の灯を見ていました。すると下の方でぱあーっと炎が広がったので、『あれ、どうしたの?』と尋ねると、ドイツ軍が僕たちの飛行機めがけて発砲したのだといわれました。」
(ミハイル・アールドフ編、田中泰子監修、「カスチョールの会」訳『わが父ショスタコーヴィチ―初めて語られる大作曲家の素顔』P.15~16、音楽之友社・2003年刊)
まさに命がけの疎開。当時まだ二人は幼かったようだが、この出来事は鮮明に覚えているそうだ。これが、1941年10月15日のことであった。
初演は1942年3月5日、S.サモスード、ボリショイ劇場管弦楽団によっておこなわれた。その初演の模様はソヴィエトの全ラジオ放送局によって最も重要な政府報道と同じように中継され、大成功を収めたといわれる。
この初演には彼の子供たちも来ていた。その時のことをマクシムはこう語っている。
「でも初演の日のことは胸に焼き付いています。《交響曲第7番》に完全に魅了され、心を揺さぶられてしまって。―中略―それから、その初演の日にもらったチョコ菓子のおいしかったことも忘れられません。チョコレートにくるまれた柔らかいキャンディーで、あんなおいしいチョコ菓子は初めてでした。」
このマクシムの話に、ガリーナが次のように付け加えている。
「あのころはたいへんな食糧不足でしたものね。そのチョコ菓子の味をマクシムが忘れられないのはそのせいもあるのでしょう。普通の人はきっと、ショスタコーヴィチの子供がひもじい思いをしてるなんて、とても信じないでしょうけれど、クイブイシェフの疎開先には、父を頼って親戚一同がやってきていたので、父ひとりで皆を養うのは並大抵ではなかったのです。」(ミハイル・アールドフ編、田中泰子監修、「カスチョールの会」訳『わが父ショスタコーヴィチ―初めて語られる大作曲家の素顔』P.20~21、音楽之友社・2003年刊)
同じ年の8月9日にはレニングラード初演が行われた。ドイツ軍に包囲されたこの街で唯一踏みとどまっていたレニングラード放送管弦楽団に、欠員補充のために専門音楽家を前線から呼び戻して行われた。この初演に関して、ある劇的なエピソードが残っている。
「演奏会は8月9日に行われたが、その日はヒトラー軍が市に侵入しようとした当日であった。苦しさと飢えにもかかわらず、フィルハーモニーのホールは聴衆でうずまった。もはや慣れっこになっていた砲撃が鳴りを静めたのには、だれもがいぶかしがった。のちになって、レニングラード戦線のゴーヴォロフ司令官の命令によって、敵のトーチカが沈黙させられたことが分かった。」(グリゴーリエフ、L.プラテーク、Ja(編)(ラドガ出版所訳)『ショスタコーヴィチ自伝 時代と自信を語る』P.131、ナウカ、1980年刊)
極限状態に置かれたレニングラード市民に、この曲はどう聞こえたのであろうか。
【各楽章について】
・第1楽章―Allegreto―
第1主題である「人間の主題」が力強く演奏された後、第2主題「平和な生活の主題」が美しく奏でられる。その静けさを小太鼓によって破られ、「戦争の主題」がとどろく。
この第1楽章について、マクシムが次のように語っている。
「第1楽章の襲来のテーマ。避けることができない何か忌まわしいものの接近。その頃僕とガーリャには信心深いパーシャという子守がいました。その晩この曲は僕の夢の中にも出てきて・・・・・・遠くの方で聞こえていた太鼓が、だんだん近づいてくる・・・・・・どんどん大きく、大きく、大きく。僕は悪夢の恐ろしさに目を覚まして、パーシャのところへすっとんでいきました。するとパーシャは十字を切って、僕のために静かに祈ってくれたんです。」(ミハイル・アールドフ編、田中泰子監修、「カスチョールの会」訳『わが父ショスタコーヴィチ―初めて語られる大作曲家の素顔』P.20~21、音楽之友社・2003年刊)
迫りくるドイツ軍。包囲戦は時間との戦いでもある。じわじわと迫ってくる死と静かに戦う市民の姿を描いたものであろう。その描写は、幼い子供にはインパクトが強すぎたのかもしれない。
当然のことだが、ショスタコーヴィチはこの楽章に与えるべきである副題を「戦争」であると語っている。
・第2楽章―Moderato. Poco allegretto―
ショスタコーヴィチは、この楽章には「回想」という副題を与えようと考えていた。
その副題を思わせるような、行き場のない宙をくるくると回るような弦楽器によるメロディーで始まる。オーボエの哀愁に満ちたメロディーも印象的である。何か落ち着かない和音が、市民の落ち着きたいのに落ち着かない気持ちを表わしているように思える。
平和だったあの頃に戻りたい・・・。包囲戦のさなか、レニングラード市民全員が思ったことに違いない。こんなつらい、なんのためにもならない戦争は早く終わらせたい。爆撃音が日常茶飯事と思ってしまうような生活から解放されたいと切に願ったであろう。
・第3楽章―Adagio―
彼は、この楽章には「祖国の大地」という副題を与えようとしていた。「祖国の大地」とは、いったい何なのか。
広大なロシアの大地。この大地は、たくさんのロシア人の血を吸ってきた。タタールのくびき、ナポレオンに勝利したモスクワの戦い、ソ連成立の際にも革命で多くのロシア人が犠牲となった。そして、レニングラード包囲。ロシア人はたくさんの困難を、町全体が一丸となって乗り越えてきた。「大祖国戦争」とも呼ばれたこの独ソ戦に、ナポレオン戦争でモスクワの街が持ちこたえた史実を重ねた市民も少なくないと思う。その戦いはロシアが西欧に勝った誇るべき勝利だったからだ。今回もナチスドイツに包囲され、食料の供給が途絶え、孤立。過酷な状況をいかに耐えるのかが、勝利への道だと思っていた市民も多くいたと思う。そういった市民の気持ちを鼓舞するような力強いメロディーが随所に表れている。
そして、その音楽は終楽章に待っている「勝利」へと切れ間なく続く。
・第4楽章―Allegro non troppo―
この楽章を彼は「勝利」の楽章と呼んだ。この楽章で繰り返し表現される「タタタター」という同音連打はモールス信号の「V」(・・・-)すなわち「Victory」を表すとされている。
相手の攻撃に耐え抜き続け、極限状態を脱しての勝利。第2部の冒頭に演奏される哀悼のメロディーは戦争での犠牲者を悼むメロディーといわれる。第3部においてはその速度を維持したまま基本モチーフが重厚に展開され、結末へのただ1本のクレッシェンドを形成、その頂点で第1楽章の第1主題(「人間の主題」)が全楽器の絶叫によって打ち立てられ、序奏の同音連打が勝利の宣言となる。

ショスタコーヴィチはレニングラードの勝利を確信していたのだろうか。この曲が作曲されたのは1941年だが、その時には900日間を超える超長期戦になるとは思ってもいなかっただろう。私は、この曲を書いた当初、現実とは違う展開を考えていたのではないかと思う。
もし、このような超長期戦になることがわかっていたら、こんな曲はかけなかったのではないだろうか、と私は思う。

【週刊】Classic Music Salonへようこそ#18 ~第一次世界大戦開戦から100年・・・2つの戦争を経験したソ連の作曲家ショスタコーヴィチ①

みなさんこんにちは。三毛猫タマです

第一次世界大戦を生きた作曲家シリーズ。
今回からしばらくは、社会主義国家「ソビエト社会主義共和国連邦」で2つの戦争があった時代を生き、スターリン独裁の時代を生きた作曲家ショクタコーヴィチについて記事を書きたいと思います。

ソ連という国はまさに第一次世界大戦が生んだ国と言っても過言ではないでしょう。
この戦争が始まった原因は各国が展開した「帝国主義政策」の衝突であり、その帝国主義を乗り越えた先にある思想が、レーニンの唱えた「社会主義」でした。そして、その社会主義を具現化したのが「ソ連」だったのです。

第一次世界大戦が開戦された1914年、ロシアは帝政国家で、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世の治世下にありました。しかし戦争が始まってからロシアの国家状況は悪化、1917年には2月革命が勃発します。このときショスタコーヴィチは11歳でした。レーニンが亡命先スイスから帰国後4月テーゼが発表され、革命はさらに激しさを増し、11月にケレンスキー臨時政府は国内混乱を理由に戦争続行は不可能と判断、ドイツと単独講和交渉に入ります。そして翌年3月に講和成立、それとともに内戦へと突入します。ロシア共産党が政権を確立しソヴィエト政権が安定したころにレーニンが病に倒れ、後継者争いが起こります。1924年にレーニンがこの世を去り、翌25年にはスターリンが政権を掌握(党大会でスターリンが唱えた「一国社会主義理論」が採択された年)、この時ショスタコーヴィチは19歳でした。

それからというもの、ショスタコーヴィチはスターリンの圧政下で多くの曲を残しました。しかしそれは粛清という恐怖との戦いでした。少しでも当局が気に入らないと容赦なく関係者が銃殺刑にあうような恐怖の時代でした。

彼に関する書籍は何冊かありますが、今回私が記事を執筆するうえで参考にした資料をここに挙げておきます。
①工藤庸介著『ショスタコーヴィチ全作品解読―ユーラシア選書4―』東洋書店・2006年刊
②ミハイル・アールドフ編、田中泰子監修、「カスチョールの会」訳
 『わが父ショスタコーヴィチ―初めて語られる大作曲家の素顔』音楽之友社・2003年刊
③ソロモン・ヴォルコフ編、水野忠夫訳『ショスタコーヴィチの証言』中央公論社・1980年刊
一番参考にしたのは①です。これは様々な文献に基づいて著者である工藤氏が体系的にショスタコーヴィチの作品を解説した書籍です。曲ごとにピックアップしていく当ブログの形式に一番合う書籍と言えるでしょう。②はショスタコーヴィチの実子が語った父の回顧録です。③は西側諸国に衝撃を与えた書籍の1つで、この本の真偽について大論争が起こったことは有名です。私は一つの参考資料としてこの作品も参照しました。

では、前置きはこのぐらいにして。本題へと参りましょう。
今回はショスタコーヴィチの作品の中でもとくに有名な交響曲第5番についてです。


スターリンが政権を掌握してから10年。ロシア国内の状況は大きく変わっていた。
粛清が始まり、スターリンの思想と相反することを唱える者は弾圧された。
標的になったのは政治思想だけじゃない。芸術もその対象となった。音楽を糧に生きていたショスタコーヴィチもその粛清におびえながら生活していた。
目をつけられたら最後、シベリアの収容所行きとなる。生きて帰ることは稀だ。極寒の収容所に送られた者は銃殺されるのがお決まりだった。
1936年、ついにショスタコーヴィチにも粛清の恐怖が迫ってきた。これが『プラウダ批判』だ。党中央委員会機関紙『プラウダ』に「音楽のかわりに荒唐無稽」と題する論文が掲載されたのだ。
標的となった作品は1934年に初演された歌劇『ムチェンツク郡のマクベス夫人』である。初演から批判的意見はあったものの概して好評だったが、一度スターリンが側近を引き連れてこの歌劇を鑑賞したことで状況が一変、その2日後に前述した記事が発表され、彼は文化統制のやり玉に挙げられてしまったのである。さらにその論文が発表された1週間後には1935年に発表されたバレエ音楽『明るい小川』も「バレエの偽善」と批判の標的にされ、ショスタコーヴィチは窮地に立たされることになった。姉の夫は強制収容所に送られ、姉もキルギスに追放、妻の母は収容所、伯父は銃殺刑に処せられた。本人もNKVD(内部人民委員部、のちのKGB)に呼び出しを受けていた。そんな状況下で作曲されたのがこの交響曲第5番であった。
ショスタコーヴィチは、この曲について多くを語っていない。作曲時に浮かべた構想、作曲時の思いなど、いまだに不明な部分が多い。その解釈如何によって演奏も大きく変わってくる。この曲はだれが指揮を振るかで大きく雰囲気が変わる曲である。
初演は1937年11月21日、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルの演奏であった。ショスタコーヴィチとムラヴィンスキーはこの曲の初演で知り合い、ムラヴィンスキーはこの曲で頭角を現し後にレニングラードフィルの首席指揮者に就任することになる。ショスタコーヴィチも彼の才能を認め、これ以後重要作の指揮はムラヴィンスキーにお願いするようになる。
初演は十月革命20周年を記念する演奏会で行われ、大成功を収めた。当時ソ連作家同盟議長を務めていたA.N.トルストイは「こういう偉大な旋律と思想を届けてくれたわれらの時代に栄えあれ。こういう芸術家を生み出したわが国民に栄えあれ」と賛辞を送った。当局もこの曲を歓迎した。
初演から数か月後、彼は初めてこの作品についてコメントした。彼は次のようにコメントした。
「私の新しい作品は、抒情的英雄的交響曲といってもいいと思う。その基本的思想は、人間の波瀾の生涯とそれを乗り切る強いオプチミズム(=楽天主義・楽観主義のこと[著者注])である。私はこの交響曲で、大きな内的、精神的苦痛に満ちたかずかずの悲劇的な試練を経て、世界観としてのオプチミズムを信ずるようになることを示したいのである。ソ連作曲家同盟レニングラード支部で討論した際、ある人たちは、この第5交響曲を自伝的作品と呼んでくれた。それはある程度までは当たっている。」
大きな内的、精神的苦痛。これはきっとプラウダ批判で受けたものだろう。自分の作品を否定され、それだけでなく自分の親族までが追放され、殺され、追い詰められた経験。これは表現しがたい苦痛であったに違いない。彼はよく自分の作品を「自伝的作品」と呼んでいた。この曲も、その批判を乗り越えていく自分の感情の揺れ・葛藤を表現したものであると私は思う。
さらに、彼は自身による「私の創造的回答」という論文の中で、次のように述べている。
「私をことのほか喜ばせたものが一つありましたが、それは交響曲第5番が正当な批判(=プラウダ批判と考えられる[筆者注])に対する一人のソビエト芸術家の実際的かつ創造的な回答である、というものでした。」

【各楽章について】
この曲は古典的な4楽章形式の曲である。
<第1楽章>
Moderato - Allegro non troppo 4/4拍子
弦楽器による重い旋律から始まる。希望の見えない暗い光景を彷彿とさせる。途中雲の切れ間から時々光はさすのだけど、暗い雰囲気が曲全体を支配していく。
その暗さは鉛のような重たい暗さではなく、まるでロシアの冬の寒さのような暗さである。
彼が当局から批判を受けていたころの雰囲気を表わしているともとれる。
出てくるコードが、足元の落ち着かない、しっくりこない和音に聞こえる。スコアが手元にないので楽譜上で確認できないが、敢えてそのような和音にしているのだろうか。不協和音ではないのだが、なにか定まらない和音が続く。途中盛り上がる部分があるが、やはり暗い雰囲気が優勢である。
最後は木管楽器によって最初の主題が再現されて静かに終わる。

<第2楽章>
Allegretto 3/4拍子
1楽章の主題の変形がメロディーとなっている。1楽章と比べると軽妙なメロディーである。
何かに突き進んでいる軍隊の行進曲にも聞こえる。3拍子の1拍目に強いアクセントがあり、鋭さをも感じるフレーズである。Hrのファンファーレ調のフレーズが勇ましく聞こえ、とても印象的。

<第3楽章>
Largo 4/4拍子
特殊なパートわけが行われたこの楽章では悲しげなメロディーが奏でられる。このフレーズに、初演時には聴衆がすすり泣いていたというエピソードが残っている。
親類が逮捕され、処刑された時の気持ちを表わしているのかもしれない。自分の曲のせいでそんなことになった彼らに対するレクイエムのようにも聞こえる。

<第4楽章>
Allegro non troppo 4/4拍子
3楽章の悲しげなフレーズとは打って変わって、力強い、勇ましいフレーズが冒頭に金管楽器によって奏でられる。
この楽章は、冒頭とコーダ部分のテンポ解釈によって雰囲気が大きく変わってくる。この第5番に関してはショスタコーヴィチの直筆譜が失われているため、本人のテンポ指定は正確にはわかっていない。
欧州の多くの指揮者は比較的緩やかなテンポで始め、後半に向けて少しずつテンポを上げていく傾向が強い。このような演奏の場合、最初は少し暗い雰囲気を引きずるが、後半テンポが上がるにつれてそのような雰囲気が無くなっていき、明るい曲調へと変化する。
バーンスタインやその弟子である佐渡裕の指揮だと、最初からテンポが速めの解釈なので、あまり暗い雰囲気はない。前3楽章で感じていた暗さからの解放を祝うかのような演奏に聞こえる。
中間部はやや悲愴的なメロディーが奏でられる。光が少しずつ雲に隠されどんよりとした雰囲気へと変化していく。しかし、今までの楽章のような暗さとは違い、希望のある、出口のある暗さである。
スネアとティンパニの刻むリズムのところから、冒頭の主題が再現される。一般的にここのテンポと冒頭のテンポをそろえるため、冒頭遅く始めた演奏ではこの部分もゆったりと演奏する。逆に早く始めた演奏では、ここの部分は早いテンポで演奏する。
前者の場合、前半は少し暗さを感じさせるが、後半部の明るく展開していく部分でその暗さを吹き飛ばすような爽快な演奏となり、その対比がはっきりと表れる。後者の場合、最初の少し暗い部分を感じず、全体を通じて明るい展開に聞こえる。
最後はティンパニの力強いリズムと金管のファンファーレのようなメロディーが印象的で、全楽器がニ音を強奏して終結する。

〔参考音源〕
・ルドルフ・バルシャイ指揮/ケルンWDR交響楽団演奏
https://www.youtube.com/watch?v=wQJ2FqkiPls
・佐渡裕指揮/ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
https://www.youtube.com/watch?v=KZzue7NUU7E

《次回予告》
次回から「戦争三部作」といわれた交響曲第7番~第9番を3回に分けて、それぞれの曲ごとに紹介していきたいと思います。

【週刊】Classic Music Salonへようこそ#17 ~第一次世界大戦開戦から100年・・・混乱の時代を生きた作曲家たち①

みなさんこんにちは。三毛猫タマです

しばらく、オケの仕事で忙殺されておりまして、更新が滞っておりました。
申し訳ありません。

そんな、私がオケで忙殺されている間に、ヨーロッパでは一つの大きな節目を迎えていました。
そう、今年は第一次世界大戦開戦からちょうど100年にあたる年なのです。
今から100年前の1914年の6月28日。オーストリア支配下のサラエボで皇太子夫妻が、セルビアの青年に暗殺される事件が発生しました。7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告することで、人類史上最初の世界大戦の火ぶたが切られるのです。
戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されているこの戦争。これまでの戦争では考えられない悲惨な戦争となったのです。

開戦から100年。この大混乱の時代に生きた作曲家たちを何人か紹介したいと思います。

今回はデンマークの作曲家カール=ニールセン、特に彼の作品の中から、もっとも有名な交響曲第4番「滅ぼし得ざるもの」を取り上げたいと思います。

ニールセン(1865年6月9日~1931年10月3日)はデンマークを代表する作曲家であり、北欧の代表的交響曲作曲家としても知られます。同時代に生きた有名な作曲家にはシベリウスがいます(みなさんはこっちの方がよくご存知かもしれません)。

今回取り上げる交響曲第4番は、1914年から1916年にかけて作曲された、まさに第一次世界大戦の真っ只中に書かれた作品です。

デンマークはほかの北欧の国々とともに中立の立場を維持しましたが、デンマークの経済は輸出に大きく依存していることもあり、ドイツが行った潜水艦無差別攻撃作戦によって多くの損失を受け、経済は停滞、物資が不足し、暴利をむさぼる者が出るなど、決して戦争と無縁ではありませんでした。

私が考えるに、デンマークの人々は、第一次世界大戦を少し引いた目で見ていたと思います。当事者ではない。だから、両陣営を冷静に見ていたように思います。しかし、ドイツと国境を接していますので、決して争いごとに無縁ではなかった。実際に戦争終結後、シュレースヴィヒの帰属でドイツと衝突します。

ニールセンが書いた交響曲第4番には同じ主題が、全楽章を通じて執拗に繰り返し登場します。まるで、争っても争っても消えない紛争の火種のように。副題の「滅ぼし得ざるもの」とはこれを指しているのかなと思うくらい。でも、曲の中に暗く、重たいものは感じられないのです。そこが、当事者ではなかったからこそなのではないでしょうか。

<曲について>
この曲は、古典的な4楽章形式をとっていますが、通常の交響曲のように楽章が明確に分けられているのとは異なり、全楽章が通して演奏される単一楽章形式で演奏されます。
また、一つの曲の中で調が移っていく多調性が採られており、古典的な調の指定はありません。

編成的な特徴として最終部の2群ティンパニの競演が挙げられます。この競演が曲の激しさを印象付けているといっていいでしょう。

この曲は単一楽章の曲ですが、今回は便宜上4楽章に分けて解説したいと思います。
―第1楽章―
冒頭部から激しい曲調で始まり、弦楽器のtuttiで主題が提示されます。この主題はこの曲全体を通じて繰り返し再現されます。
激しい冒頭部が終わると木管楽器による穏やかな曲調へ移行します。クラリネットを中心とした木管楽器の掛け合いが美しいところです。
その後弦楽器によって第2主題が提示されます(これは曲の最終部で再現されます)。
この曲全体に言えることですが、一つのフレーズが、ここまでやるかというくらい様々なパートに受け継がれていき、執拗に再現されることです。その再現が複数重なることでぐわーと曲が盛り上がる・・・これが、(私が思うに)様々な利害(しかも昔から根本的に変わらない人間の欲望に基づく)が重なり合うことで一つの「戦争」が盛り上がってしまう様を表わしているように感じます。
この第一楽章は緩急の繰り返しが連なる、激しい曲調が印象的です。

―第2楽章―
段々と曲調が穏やかになっていき、木管が牧歌的メロディーを奏でる、田舎を彷彿とさせる第2楽章がはじまります。クラリネットとファゴットの掛け合い、その後フルートとファゴットの掛け合い。激しさから解放され、一息つける安心感を抱いているような気持ちになる楽章です。
メンデルスゾーンもそうですが、私個人的には、こうゆう木管楽器が映えるメロディーを書く作曲家が好みだな、と思います。何とも言えない美しさを木管楽器は持っていると私は思います。
その後、弦楽器のピチカートが加わって、いままでとても穏やかだったのが、少し曇り始めたような雰囲気の曲調へと変わっていきます。
しかし、またクラリネットによって2楽章最初の主題が再現され、元の穏やかな雰囲気へと戻っていきます。

―第3楽章―
静かに木管のメロディーが、雲に隠れる太陽の光のように消えていくと、ヴァイオリンによって、灰色の雲が近づいてくるときに吹く冷たい風のような、少し重たいテーマが提示されます。これにティンパニの「ドン、ドンドン」というリズムが、その重たさ・冷たさを助長させます。
そんな中、中盤に入ると、雲の間からかすかに差し込む太陽の光くらいの温かさくらいの温度を感じさせるメロディーが、低弦によって奏でられます。しかし、その太陽の光も、すぐに周りにある灰色の雲によって遮られてしまう。ほっとできるのもつかの間。段々とその太陽が差し込む時間が短くなっていき、ついには差し込まなくなってしまう・・・第一楽章のような、嵐の予感がする曲調へと変化していきます。
まるで、平和な、何もない世界がほんのひと時であるような、そんな風に感じさせる楽章だと思います。

―第4楽章―
オーボエのソロの後、ヴァイオリンによって、激しいメロディーが提示されると、これを低弦が受け継ぎます。その後、この曲の特徴の一つであるティンパニ2群の競演がはじまります。第4楽章は少し暗い雰囲気もありつつ、何かその暗さに打ち勝った、勝利(あるいは解決の喜び)を感じさせる明るいメロディーも現れます。明るさと暗さが交互にやってくるような感じ。
しかし、また暗い雰囲気が優勢になっていき、ティンパニの激しい競演によって激しさを増します。その激しさを弦楽器が、そして木管楽器が受け継いでいきます。そして、最後は金管楽器によって何かに勝利したような、空へと突き抜けていくような爽快なメロディーが奏でられます。
私は、その「何か」は歴史上人類が繰り返してきた、「いさかい」のような気がします。

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▲ニールセンの生まれ故郷オーデンセの教会

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